深度 、急速潜行~
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[日々のいとまに]過去の結果としての現在、未来の原因としての現在
ベルスポ様の「R&R感想とクールなPC」や「レッツ迎撃☆内輪ネタもバッチコーイ!?」と、そこからリンクされていた古木の虚様の「過去を思うな!敵は前にあり!~キャラクター設定について~」あたりを眺めて思ったコト(例によって、誘因となったリンク先に直接関連しない話題ですスマン)をつれづれなるままに、っていうか、酒保がわりに一発。
 あのさ、キャラクターの魅力ってなんだ?
 萌えでもカッケェでもなんでもいいですが、ようするに、そういう、「ゲームらしいゲーム」性以外の部分の味付け全般における魅力。
 指輪世界で見た言葉では「キャラクターポテンシャル」ってところでしょうか。ってか、このリンク先の文章で全てが語られてる気もするんですが。(TRPG の話題ではないんですけどね) ただまぁ、これだけだと実例というか具体的な記述が足らないので参考文献を追加。
 指輪世界経由で知った EBM のテキスト群はいずれも優れた具体例なのですが、とりあえず「マルチ萌えの誘因について」のシリーズ(1~3 で、新しいほうが上にあるので注意)と、「体育会系と文化系・概論」あたりを読んでおけばよろしいでしょうか。あとは「番組改編期における人格逸脱祭り」(これも後編が上)と、「萌え狂態としての照れと怒り」「能動的人格への恥辱にまみれた転換 : ヘタレた娘への衝動的な萌え」あたり。個人的には「その他も含めて全部読め」と申し上げたいところですが。
 これらのテキストにわたしは多くの部分で共感します。すなわち、萌え(広義の。すなわち、キャラクターの魅力全般と近似可能)の本質は、「基底状態からの逸脱」にある、ということです。
 ということは、だ。
 クールなキャラクター、「カッコイイ」キャラクターがその魅力を遺憾なく発揮するためには、そのキャラクターは「そうではない状態」に突入することが必要であることは、これは自明じゃないのかい?
 ベルスポ様の記事の中で引かれていた清松発言「特にクール系は、反発を受けやすい。『偉そうにしてやがって、今に見ておれ』になりがち」は、「それはマズいからやめとこう」という見方をするのではなく、「そうするためにガンガン出しましょう」という意味に受け取るべきだと思うのです。クールな NPC として恐らく広く知られていると思われるキャラクターとしてファーストガンダムのシャアを引いてみましょう。シャアはとりあえず登場時には何者かわからないのでクールでカッコいい発言をバカスカさせておいてクールでカッコいい基底状態を作り出しておきまず一発萌えさせ(ると同時に倒すべき対象であるという初期のセッティングを行い)いったん退場させてからジャブローで登場させることによって、「ヤツだ……ヤツが来たんだ……!」とビビリながらも対応してみせるアムロを描いて当初シャアに圧倒されてた時期にセットされた基底人格からの成長を描いて萌やし、最後には「見える、わたしにも敵がみえる!」「ララァ、わたしを導いてくれ!」とシャアにヘタレさせて萌えさせる、という構造になってます。
 で、と、なるとだ。
 基本的にはキャラクターが成長してゆくゲームである TRPG においてプレイヤーキャラクターを、それに魅力を与える手段として、クールでカッコいいキャラクターに設定するというのが大ハズレになりがちなのは Likely なことであると思わんか? そのキャラクターが魅力を発揮するためには、ヘタレなければならないわけですが、そのキャラクターをカッコよくしようとしたプレイヤーはヘタレたいとは思ってないわけで、要するに誰かが不幸になる、と。
 逆に、最初ヘタレとしてキャラクターを設定した場合も、そのキャラがキャンペーンの最終回に至ってカッコいいセリフを吐いてカッコいいキャラクターに化けることには、そのキャラをなんとしてもヘタレにしておきたいと思っていたプレイヤーでも比較的抵抗を感じにくいように思います。それは、多くの TRPG がキャラクターが成長し強くなり、その結果、自動的にある程度のカッコよさを与えられてしまわざるを得ないようにデザインされているからでもありましょうし、多くの我々が接するメディアが(ハリウッド映画はその代表ですが)どっちかというとアッパー方向への人格逸脱をもって盛り上がる物語であることによる刷り込みでもありましょうし、戦って(物理的な戦闘以外の「戦い」も含む広義の、です)困難を克服するという形態が一般的である TRPG のシナリオ作成作法によるものでもありましょう。
 コール・オヴ・クトゥルフなどのホラー系ゲームは、キャラクターがマイナス成長することが普通に受け容れられるために、初期段階ではクールでカッコよかったハズのキャラクターがダウナー方向へ逸脱していくなどのプレイがやりやすく、また、d100 版はとくに初期段階からキャラクターが性能的にも完成されており、その後の成長が薄い点から、最初からカッコよくて一人前のキャラクターが作りやすく向いています。d20 はその意味では、どんどんキャラクターはマイナス成長しているハズなのにレベルが上がってしまう点で微妙かもしれません(d20 版は結局まだ一度も遊んでないのでなんともいえませんが)
 これらを踏まえた上で、過去のセッションにも参加していたキャラクターを、その過去のセッションを知らないプレイヤーもいる現在のセッションに投入して遊ぶ、という場面において取るべき行動はどんなんでありましょうか。
 過去に確立された基底状態を維持するプレイは、その過去を知っているといないとに関わらず、そのキャラクターの魅力を発揮するプレイではない、と考えるべきなんじゃないかなぁ、と思います。
 キャラクターが魅力的であり続けるためには、キャラクターは持っている(まだ見せていない)ポテンシャルを吐き出し続けるか、あるいは変わり続ける必要があります。変わり続けられないのであれば、露出を減らして慣れられないようにし続けなければならず、これは NPC の場合には有効な手法ですが、PC の場合にはまぁムリでしょう。NPC は、その印象をプレイヤーに強く焼きつけておくためにはあまりブレないキャラクター性を持つほうがよく、最初っから最終回直前まではほとんど圧倒的だったハズの敵幹部が最終回直前で PC に倒されて「ヒヨっ子だと思っていたが……やるようになったな……ぐふッ」と萌やすのは安定した手法です。PC の場合、キャラクターポテンシャルを温存しようとすると出番を減らして存在感を希薄化させるか、あらゆる場面で他のポテンシャルを持ってるにもかかわらず同じことばっか続ける一つ覚えバカとして行動するなどといった後ろ向きのスタイルを基底的には取らざるを得ず、その段階であまり魅力がなくなってしまうというのが第一。第二に、そんなヌルい行動ばかりするプレイヤーキャラクターが生き残れるほど毎回ヌルいシナリオを書くマスターはいないだろうし、いたらそのゲームは退屈になるだろうなぁということがありましょう。
 ついでに書いておきますと、こうした嗜好を持つわたしにとっては「萌え」と狭義に定義されるさまざまな最近の風潮は萌えの名に値しないのではないかとも思われます。云ってみれば、「萌え」とは「変化」を内包するものであると定義されるわけであり、これはすなわちそれ自体を変化しない何物かとして定義することが不可能なものであるということなのではないでしょうか。
 「ツンデレ」などは、この基底人格と逸脱によって定義される萌えの古典的で普遍的な「変化の様式」の呼称であり、こういう形で定義することは可能だろうと思いますが。
 まぁそんなカンジで、なんかまとまりませんが、キャラクターの設定、魅力、既存キャラの使用、などについて思ったことをダラダラ書いてみました、っつーことで。
 表題は銀英伝より、ルパード・ケッセルリンクの台詞「人間には現在はむろんたいせつですが、どうせなら過去の結果としての現在より、未来の原因としての現在を、よりたいせつになさるべきでしょうな」から。書き始めたトキに想定していたのとはずいぶん違う論旨になってしまったので、なんか本文にそぐわない表題になってしまった気もしますが、まぁ気にしない方向性でひとつ。
2005/12/29 (Thu)
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