深度 、急速潜行~
[日々のいとまに]091026 ~ブラックラグーン 9 巻~
▼うひぃえ~! 長かった! もういろんな意味で! このエピソードがそもそも長かったし、8 巻からこの巻までが長すぎでいろいろ覚えてねぇよモルスァ! ってことでちょっと 8 巻も引っ張り出して読み返したりしつつ読んでみたんですが、まぁ現在と過去(回想)といろいろと交錯してるし、実にややこしくて疲れるアレではありました。
 とりあえず、本筋の部分はなんとか思い出して追いついた感じですが、エピソード単位のネタと並行して投入されるキャンペーン通しての設定やら伏線やら「今はまだ使いどころのない情報」を把握するのは大変じゃぜい。
 ってことで以下ネタバレ水面下。
 ……あ、その前に。やっぱソーヤーとロットンは萌え死ぬしか! というのは云っときますか。つーかこいつらに引っ張られてですだよまで萌えの領域に。どうすんだこいつら。
 気を取り直して以下は本格的に水面下。
 つーてもそんなにたくさん書きたいわけでもねぇではあります。
 とりあえずまず一点はやはり二号機。んまぁ、絵面(髪型)的には修羅のほうがよろしげかとは思いますが、言動的には羅刹に軍配かねぇ。
 んで、二点目。ロックについてはやはり、「両方」なんだろうなぁと思い、また、それを感じ取ってるっぺれぇ張さん(本人は指摘されてようやく自覚したあたりぐらい?)がカッケェなぁ、というあたりでございます。心底救いたい、という感情と、救えるかどうかギリギリの勝負を心底楽しむ、という感覚は何ら問題なく共存できると思うぜ(連想:「日々の糧」) ……と、まぁ、「救う」だのという一語で語ってしまうとちょっと単純になりすぎるとは思いますが。でも、どっちの動機が欠けても渡りきれない橋だろ、ああいうのは。全身全霊の感情移入と、現場から超越的した位置に退いた判断。すなわち、PC とプレイヤーの両方の視点と技量を注ぎ込んではじめて切り拓ける針の穴。それができるのがプレイヤーでありプレイヤーキャラクター。できないヤツは NPC!
 そう、「両方」だ!
 ……つーことで、先日のあのいきなり何云ってんだ的なアレは実は今日のこの話のための前フリだったわけですが、舞台に踏み出そうとしてるときに偽善だの悪党だのというアライメント問題が何か幅を利かせそうに見えたら、「クソったれ! 両方だボケ!」とまず宣言してしまうのはいかがでしょうか、とかそんなことを云っといてみる次第です。ま、現実の話として話してしまうほどの覚悟はできねぇので、TRPG の話題のようなフリをしつつ、な。
 まぁでも、芯から「両方!」と思って生きてる身には、やっぱり南米三人衆の純粋さにまぶしさを感じるっちゃ感じるところもあるのではありますけど。ま、「両方」を選んでるロックに一発ブッ放さずにはおれなかったファビオラには(若様に比して)まだ甘さというか不徹底さというか視界の狭さも感じる(反対側の選択肢を選んでるレヴィにぶつかるのは正しい)……ってな感じなのか……? 
 まぁそんな塩梅で。
 シリーズとしてもここらが折り返しってとこでしょうかね。

 ……しかしまぁ、なんだな、以下はさらにもう一段水面下な感じの話になっちまいますが、オレは、プレイヤー同士としては、誰もが「両方」だろうと思ってる(天秤が比較的どっち寄りであるかとかはもちろんいろいろだよー)し、自分がプレイヤーとして PC を操ってるときもそうなんだけど、例外として、アライメント的に強く偏った PC――というのはつまりパラディン――に関しては、「『両方』の視点を持ったプレイヤー」が「『片方』の視点を持ったキャラクター」を、「『片方』の運用手法で運用」して欲しい、とちょっと押しつけてしまっているのかもしれん……というようなことをちょっと思ってしまいました。不当なマスタリングをやってるかっつーと、そういうつもりはないんだけどねぇ。というか、自分がプレイヤーであれば、わざわざ偏ったキャラクターを使うと決めたなら、やはりそのようにプレイするだろうし。ただまぁ、オレは、長くなると予想できるキャンペーンで、そういう PC を使おうとは現実には決して思わないかもしれないなぁとも思ったりも。たとえばレヴィ側の選択肢に偏るのであればまだしも(あくまでも「まだしも」ですが)南米隊の側に偏らせたら、ちょっとこれを(TRPG の PC がそうであるような)レギュラーキャラクターとして使うのは……いろいろと重過ぎてやめとくべきだよなぁと思ってしまいそうでして。実際、レヴィはレギュラーであるのに対し、レヴィ的なスタンスに対するさまざまに対照的な要素は、いずれもゲストとしての登場です。
 ということは、オレの「世界観」はロアナプラ的なのだろうか。
 では、逆に、反レヴィ的に偏ったキャラクターがレギュラー出演可能で、かつ頭脳的にも腕力的にもシビアな挑戦が繰り返されるキャンペーンがあるとしたら、どういう「世界観」なら可能なんじゃろうか。
 たとえば、放蕩 TRPG 部さまのさまざまな混乱とかは、その可能性に挑戦してる姿だったりするんじゃろうか。
 なんだかそんなコトも、ついでに考えてしまったり。
 考え事のタネ的にはもうひとつ。たとえばシェーンはパラディンのロールモデルたりうるだろうか。ロールモデルってのが云いすぎなら、あれはパラディンとしてありうるだろうか。あるいは、過去のある時点でパラディンだった可能性があるだろうか。もし過去においてパラディンたりえて、現在は違うのだとすれば、どの時点で「たりえなくなった」のだろうか。
 ロベルタは?
 いや、ロベルタはケンサイ寄りかなぁ?
 ……なんか「両方」の定義がまたもう一段メタってる気もしますが、それも「両方」呑んどく方向性でひとつ。
 だってホラ、こんなような、ある種のめり込んだことを本気で考えてるってことも、ブログネタとしてちょっと熱くなるんじゃね? みたいに計算してることも、「両方」なわけだし、そこはもうどこまで行っても「両方!」なわけですからなっ。
2009/10/26 (Mon)
■ Comment
・コメントを投稿する
URL
Comment
Pass
 
■ Trackback
この記事のトラックバックURL
・この記事へのトラックバック
* Top *